最近、様々な形で自分を紹介していただくことが増えて嬉しい楢崎です。
自分にできる、できない関係なく、本当に色んなご相談をいただいております。(今は市長選挙のサポートをインターネットを活用して行ってもらいたい。という依頼を受けています。)
本当にありがとうございます。
2015年にフリーランスWEBデザイナーとして独立してから、皆様のご紹介だけで仕事をいただいております。
よく、「独立前の会社のお客様をそのまま引き継いだのですか?」など聞かれるのですが、引き継いだお客様は1社もありません。
お世話になった元の会社のみんなに後ろ指を指されるような生き方はしたくないと思い、大好きだったお客様も全て手放して独立しました。
フリーランスとして独立して、しっかり稼ぐって難しそうでしたが、こんな楢崎さんでもできるんだ。と思ってもらい、それなら自分だってできそう!と思ってもらうのが、このブログの目的です。
今後、自分を紹介される方にとっても、初めて楢崎を知った人にとっても分かりやすいように、今回は、1記事で楢崎雅也を紹介させていただきますね。
目次
はじめに:話すとみんなに驚かれること
HTML・CSSやプログラミングなど、ホームページを作るのに必要そうな言語が大の苦手です。
背景の黒い画面に白い文字でカツカツとタイピングするようなこと。ほとんどできません!
それでどうやってホームページ作れるんですか?と言われるのですが、それができないとホームページを作れないという考え方に、自分は違和感を持ったんです。
逆にいうと、HTMLができなくてもホームページで成果を出すことができるという証明にもなっているので、今は、好きではないHTMLを学ぶ気は一切なく、お客様が成果を出すために何が必要か?ということに集中しています。
WEBデザインの学校などは一切行っておらず、完全独学です。
昔は、WEBデザインを学んでいない自分が、デザイナーなんて名乗っていいのか?と思い、名刺にWEBデザイナーと書いているのが辛い時期がありました。
だけど、WEBデザインって、芸術家ではないので、自分を表現するのではなく、お客様を表現する方法としてふさわしければそれで合格なんですよね。
そう思えるようになってからの方が、さらにお客様に喜ばれるデザインができるようになり、成果もついてくるようになりました。
営業が苦手で、営業職から降ろされてスタートしたのがWEBサイト制作でした。
恥ずかしながら、営業会社に入社して売り上げが出せずに、会社にしがみつくこと2年。
会社もさすがに限界が来て、提案されたのがホームページ制作をやらないか?でした。
リアルでものが売れない男に、ホームページを使ってものが売れるのか?と考えそうですが、自分にはこれが合っていたんですね。
お客様の会社や働く皆さんの素敵な部分を引き出し、表現することで、問い合わせがくるホームページができる。
これは対面の営業力がなくても、セールスはできるんだ!という気づきと、自信になりました。
営業成績が晩年最下位で、WEBデザインを学んだこともなく、HTMLできない自分が、今こうしてお客様のホームページの制作依頼をいただいたり、コンサルティングの相談を受けている。
これって、読んでいただいているみんなの希望になると思うんです。
だって、ホームページ制作が大好きで、デザインが好きで、という方が稼げないはずがないと本気で思っています。
そして今、日々の制作以外に、こうしてフリーランスWEBデザイナーさんや、好きなことを仕事にしたいけどやり方が分からないという方のサポートを行うにあたり、自分、楢崎 雅也がどんな人物なのかを、過去の自分も含めて共有しておくと、アドバイスする内容を、より理解しやすくなると思いますので、自分の過去の話や生い立ちも含めて紹介させていただきます。
これまでの実績・成果
全て自分のクライアントさんで実現した成果です。
・わずか3,300円の広告費、1週間で420名のメルマガ登録をもらう
・カレーのネット販売で、商品数1つにも関わらず、単月で150万円の売り上げ
・サイト公開1年で、「品川 ペットホテル」で検索順位1位
・フリーランスとしての最高受注単価1件160万円。 単月最高受注金額350万円(定期保守含む)
・営業マンゼロ、社長含め3名の工務店で、年間3棟の新築住宅を受注
・相続・遺言に特化したインターネット講座を立ち上げ、年間売り上げ毎年2,000万円以上の仕組みをつくる
・地域性を考え、狭小住宅に特化したサイトにリニューアルし、新築の受注を月間3件いただく
・採用を重視したサイトを制作し、人材募集広告を出した際の応募率が3倍以上になる。
楢崎雅也の生い立ち
1979年。楢崎家の長男として誕生しました。
両親は二人とも公務員、下に弟と妹の3人兄弟です。
九州の宮崎県で幼稚園から高校までを過ごしました。
小学生:みんなが嫌がることを率先してやる子
学校で、学級委員長などを決める時、誰も立候補しないって経験ありますよね。
自分は、あの空気に耐えることができず、つい「自分がやります!」と言ってしまってたんです。
本当はやりたいわけではないのに。
その典型的なことの一つが、サッカー少年団に入っていた時ありました。
監督が全員を集めて言いました。
「ゴールキーパーをやる人?」
もちろん、誰も手を上げません・・・。
そこで自分はいつものように、手を上げてしまったんですね。
誰よりも足が早く、本当は、グランドを走り回ってゴールを決めてみたかったはずなのに。
今となっては、人が嫌がることを率先してやる=いい子 という考えが自分の中にあったんじゃないかな?と思います。
長男として、いいお兄ちゃんでいないと!と思っていた延長で、色んなところで自分を本当の思いを犠牲にしていたように思います。
ただ、そのおかげでいい事もありました。
自分から新しい環境や役割を選んで一歩をスタートする事で、普通に過ごしていては経験できなかった事を経験できました。そして、そこで新しい自分に気づける事も多々ありました。
環境が人を作る。というのを感覚としてもち始め、誰と過ごすかを大切にしたことで、一つ一つの出会いが深くなり、今では出会いが気が付くとそのまま仕事につながるようになりました。
中学時代:部活と恋愛、時々勉強
学校に行く楽しみ。それは部活と気になる子に会うため。
それだけ。そんな中学時代でした。
だけど、結果としてかっこいいところを見せたい!という思いから、部活はサッカーで県大会2位(さらっと2位って書いてるけど、県で2位って結構凄いことだったんです)
そして勉強も進学校に合格できるくらいになりました。
今思い出しても、恋って凄いエネルギーですね。
楽しい時代だったな~。
高校時代:自転車競技だけに集中
進学校に行ったものの、高校1年のときの担任が潜在意識に刷り込むかのように
「楢崎、あんたはダメじゃ~~!」って何度も言うんですよね。(宮崎弁だけど、ニュアンスは伝わるかな?)
今でも教訓になっているのですが、子どもの希望を無くすような言葉を軽々しく言ったらだめですね。
なので、自分は我が子に対して、「ハルトはきっとできるよ!」「今できないだけだから!」「そのうち食べられるようになるから大丈夫!」って、否定しないようにしています。
もし叱ったって、絶対にフォローするし。
話を戻しますね。
そこで、自分は、勉強に注ぐエネルギーは一切なくなり、放課後の部活「自転車競技」だけを楽しみに生きていました。
エネルギーを注ぐところがそこしかないと、人間強いもので、高校1年から県大会優勝。さらに3年まで3連覇!
九州大会4位という成績を残すことができました。
勉強もしない!恋愛もしない!ただ自転車をこぎ続けるだけ。
だけど、何に集中するかで誰だって成果を出すことができるという自信をもてたのは自転車競技のおかげです。
大学時代:自転車の名門、日本大学に入る
大学は、スポーツ推薦で日本大学に入ることができました。
自転車の名門!日大自転車部!!
しかし、同期は各種目の日本一や世界戦入賞者だらけ。
環境が人をつくるとは思いながらも、そのレベルの違いに先輩からイジメられる日々が始まりました。
存在するだけでイジメられる。
大学で授業を受けている時間だけは、解放されましたが、寮に戻ると小さなベッドスペースだけの自分の部屋?は荒らされ、毎日つけていた日記を盗み見られたりと、精神的にボロボロになっていました。
そんな自分が、何に生きがいを感じていたかというと、「自転車の練習」
いつも自分をイジメる先輩と一緒に練習を行うのですが、簡単に言うと、自分が練習でメチャクチャスピードを上げると、それに付いてくる先輩は苦しくなるんですよね。
そう、正当な理由で先輩を苦しめられるんです!!
ただ、苦しいのは自分も同じ。なので、朝の全体練習はもちろん、学校がなければ練習。夕食が終われば練習。と誰よりもペダルをこいでいました。
自分をイジメる先輩は、全国1位。大会に出ればいつも優勝、最悪でも表彰台でした。
そんな先輩と毎日練習をしてると、気が付くとこんな成果を出せてしまったんです。
全国大会で初入賞!4位!!
大学4年次には全日本選手権という、アジア選の選考会にも出場することができ、ここでも4位入賞を果たすことができました。
ここまで書いてなんですが
自分は今、全国4位になったことが凄いでしょ?と言いたいわけではありません。
結局、環境だったんです。
誰から学び、誰と過ごしたか。
日本一のメンバーと過ごすということは、練習する内容も日本一であれば、意識も日本一なんです。
そこで寝食を共にすれば、だんだん自分自身もそこに近づいていけるんです。
就職~フリーター~再就職
新卒でスーパーマーケットへ入社
大学卒業後は、都内の中堅スーパーマーケットに入社しました。
特に何がしたかったわけでもなく、面接で全国4位の話をしたら担当者に気に入ってもらって、何度か美味しいご飯に連れて行ってもらって、その流れでそのまま決めた感じでした。
しかし、社会人1年目は当たり前ですが、自転車の成績とは全く関係ありません。
数か月前まで大会に行けばチヤホヤされていた自分が、毎日罵声を浴びるは叩かれるはになりました。
当時、鮮魚部だったのですが、課長が後ろからホースで自分の長靴に水を入れるイタズラを楽しむんですよね。
朝4時から夜23時半まで履く長靴は、乾く暇もなくまた水を入れられる。
大学時代と同様に、またイジメの日々が始まりました。
ただ、大学時代と違ったのは、この環境が本当に自分にいいのか?と考えた時に、続けるに値しないことが明らかだったんです。
大学時代は、目指す先輩、追い抜きたいライバルがいました。
しかし、スーパーには、離婚してストレスのはけ口が弱い人間にしかない人が多すぎて。
昔から「環境」を重視していた自分は、辞めるという選択に迷いはありませんでした。
フリーター生活
それから始まったのがフリーター生活。
省エネ設備のテレアポ、コーヒーショップ、高級和食料理のスタッフ、定食屋のスタッフ、カラオケ屋の店員、時間がある限り働きました。
ある月、それこそ寝る間も惜しんで働いてみました。
すると、その月の給料は手取りで42万円。
一瞬嬉しかったのですが、寝る間も惜しんであれだけ働いて42万円。
時間の切り売りという、自分の働き方と給料の上限を見た瞬間でした。
どうすればもっと給料を増やすことができるのか?
そこで目に飛び込んできたのが完全出来高の営業でした。
営業会社へ入社
営業力があれば、何でも売れる!自分の収入を自分で決めることができる!
そう思って、営業を学べる最高の「環境」を探しました。
そこで見つけたのが、有名な経営者であり、ベストセラー作家でもある方の会社。
完全出来高でいいので、こちらで学ばせてください!とお願いし、働けることになりました。
しかし、なかなか思うようにいかないもの。
売り上げがあがらないんです。
入社して2か月目に初めてもらえた給料は86,000円。
家賃しか払えず、食事はパスタに100均で買ったミートソースを3回に分けて使っていました。
営業マンとしてのリストラ
入社して1年半、営業力を身に付けたくてやってきましたが、とうとう会社から言われてしまいました。
「楢崎、営業はもうやめよう」と。
人通りの多いお昼時でしたが、あふれる涙を止めることはできませんでした。
営業をやめる=自分で自分の人生をコントロールするのをやめる のと同じことだと思っていました。
そこで新たな道として提案されたのがホームページ制作だったのです。
WEBデザイナーとして、ゼロからのスタート
会社からホームページを作ってみよう!と提案されたものの、学校に行ったこともなければ、もちろん作ったこともない。
そんな自分に給料を払いながら学ばせてくれるほど、優しくはないので、ここで自分は派遣社員になりました。
朝は、WEBサイト制作を独学、そのアウトプットとして制作
日中は、派遣スタッフとして駅前の大手電機量販店でブロードバンドの販売スタッフ
夜は深夜2時までWEBの勉強と制作
そんな生活が2年弱続きました。
いつ会社に復帰させてもらえるかも分からない。
付き合っている彼女(今の奥さん)の実家に「派遣してます!」なんて挨拶できないので、結婚にも踏み込めない。
正直、辛過ぎる時期でした。
だけど、独学でWEBサイト制作をやり続けることで、あるお客様のサイトで成果が出始めたんです。
それは、自分が登録させていただいた派遣会社のサイトを、自分が作らせていただいたのですが、2~3時間に一度は必ず問い合わせがくるような状態になりました。
携帯が鳴れば、あっ!またお問い合わせ!と思うくらい、凄い数の問い合わせ。
その成果が認められ、晴れてもとの会社に復帰することができました。
営業マンとしての首宣告から2年が経っていました。
WEBデザイナーnaraとして本領発揮!
ただの売れない営業マンだった自分が、成果の出るWEBデザイナーとして会社に貢献できる!お客様に貢献できる!
それがどれだけ嬉しかったか。
さらに、ホームページを納品後、そこから成果が出ると、ビジネスフォンや複合機、その他の色んなものを追加で気持ちよく購入していただけるんです。
営業ができなくて、会社に貢献できなくて、出された自分が、売り上げに貢献してる!!!
それだけで、本当に幸せでした。
WEBデザイナーへ方向転換してよかった。と心から思いました。
そんな順調なときにいきなりのリストラ宣告
制作させていただいたお客様のサイトからは、相変わらず成果が出ており、自分はようやく会社に自分の居場所を感じていました。
しかし、当時の自分には見えていなかったのですが、お客様の成果にこだわり過ぎる自分の制作スタイルは、会社の方向性である「いかに安く、早く制作するか」というものには合っておらず、徐々に邪魔な存在になっていたようでした。
当時はプライベートも充実していて、半年後にはマイホームもできて、家族3人で楽しく暮らせる。と思っていたそんな矢先に、
会社から「独立しないか?」という提案をされました。
引き継ぐお客様があるわけでもない独立。まさにゼロからのスタートになります。
住宅ローンもスタートするのにお客様はゼロ。収入もゼロになる可能性があるということです。
自分には、会社に残りたいという権利も選択肢もありました。
しかし、会社が出ていけという判断をした背景を想像すると、残らせてくださいという回答は自分にはありませんでした。
フリーランスWEBデザイナーとして独立
開業届の出し方も知らない、会社のお金の管理の仕方も分からない、経費の概念もあやふや。
そんな何の準備もないまま、小さなイカダで大海原へ出航しました。
独立当初は飛び込み営業を経験したこともあるのだから、いざとなれば100社飛び込めば、1社はお客様になるだろう。
そんな覚悟をしていました。
独立して、1か月がたち、2か月がたち、わずかなご依頼をいただきながら、貯金を切り崩して生活していました。
気が付くと、腰のあたりには、ストレスによる自律神経障害からくる蕁麻疹が両手サイズくらいに広がっていました。
受注単価の低さに悩んでいた時に、メンターWさんに会う
ホームページの制作で、やすい時は8ページ4万などで仕事を受けることがありました。
家族を養わないといけない。様々なローンを払わないといけない。
そう追い込まれると、ゼロよりはいい。と思って受けてしまうんですよね。
仕事はある。しかし、それが重なる事で徐々に心と体が削られていくような感覚がありました。
そんなある日、友人の紹介で、ある人を紹介されました。
「天才マーケッターが遊びに来るから、ならちゃんも来ない?」
その日は大雨。埼玉の田舎から都内に出るのは気持ち的には億劫なはずだったのですが、直感で、今日会っておこう。と思い、事務所を出ました。
その方は、まだ20代なのに、自信に満ち溢れていました。
それでいて謙虚。
インターネットを駆使して仕組みを構築し、月に500万以上は寝てても稼げる。そんな方でした。
普通に考えると、怪しさ満点ですよね。
だけど、その中身を聞けば聞くほど、疑いようもない事実で、何をどうすればここまで来たのかを教えてくれました。
自分は迷わず、通常は受け付けていないプライベートコンサルをお願いしました。
その時言われた内容を今でも覚えています、
「楢崎さん、なんで自分が300万でもプライベートコンサルを受け付けないか理由分かります?それは、寝て起きたら10万円が振り込まれている毎日だと、毎日サポートして300万は安すぎるからなんです。」
と言われました。
何はともあれ、言われた通りにやってみよう。
その第一弾でいきなり目が飛び出る経験をしたのでした。
見積もりの作り方一つで単価が3倍に
これまでは、やすい時は10万、高くても40万円程で受注していたのですが、見積もり提出をする前に一度見せて欲しいと言われたので、確認してもらいました。
すると!!!
「全然ダメっすね」
と一言。
そこで、言われた通りに修正すること15分。
出来上がった見積もりは、過去に見た事のない桁数になっていました。
メンターのWさんは
「もしこれで、いらない部分を削られたとしても、これまでの単価の倍にはなりますよね?これで行きましょう」と。
そして、お客様へ見積もりを提出しました。
その時の感情は今でも覚えています。
・怒られるんじゃないかな?
・即断られるかも。
・紹介者に何て言おう?
とにかく不安で仕方ありませんでした。
しかし、数日後。お客様から連絡がありました。
「楢崎さん、あの提案でお願いします!」とさらり。
自分は「提案内容は大丈夫ということで、ありがとうございます。で、お見積もりは?」
「あ〜、それでお願いします!」とこれまたさらり。
奇跡の値引きゼロ!!!!
こんな感じで、2件連続でこれまでの3倍の提案が通ったのです。
制作するページ数が3倍になったわけではありません。
3倍素晴らしいホームページというわけでもありません。
どんな金額でも100%で制作しているので。
ただ、高単価で受注できると、お客様のサイトをじっくりとリサーチできて、最後はライターさんにチェックしてもらうなど、細かなところまで手の届く出来栄えにすることができました。
お客様は大喜び。
そして、何より自分が大喜びですよね。
こうして、メンターWさんから学ぶ日々がスタートしたのでした。
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